星めぐりの歌/宮沢賢治 ― 2009年12月19日 21時24分
ここ数日寒いですね。
腰痛の治療に整形外科に通う道すがら、寒さに震えながら空を見あげてみますと、冴え冴えとした夜空に星のまたたきがいつもより強く感じられました。
ふと、宮沢賢治の「星めぐりの歌」思い出しました。
"オリオンは高く歌い、露と霜とを落とす”というワンフレーズが口をついて出て来ます。
そういえば、少年の頃は宮沢賢治一色だったなぁと思います。一番強く賢治に憧れたのは少年期もいよいよ終わりを告げようとする16歳の時でした。
この歳の夏休み、私は東北地方から北海道へひとりで旅をすることにし、まず花巻へ行こうと考えました。無論、宮沢賢治の生地であり「イーハトーヴ」であるからです。
その道程はまたの機会に譲りますが、花巻ではたまたま花巻市文化会館の落成式があり、そのギャラリーで「宮沢賢治展」が開催されていました。
ユースホステルに泊まり合わせた人たちと連れ立って会場へ赴きますと、旅の若い者のグループをみつけた会場の方が「清六さん(賢治の実弟宮沢清六氏の事)がお見えになっているので、ぜひお会いなさい」と声をかけて紹介してくださいました。
私たちは大喜び、もう舞い上がってしまいましたが、清六さんはにこやかに応じてお話をしてくださいました。あの感激は未だに忘れられません。

<クリックで拡大>
左から三人目が宮沢清六さん。右端のヘナチョコが当時の私です。
この時に、宮沢賢治のつくった歌を幾つか覚えました。賢治が作詞した花巻農学校精神歌などはその素晴らしい詞に感激しました。
今宵、口ずさんだ「星めぐりの歌」もこの頃に覚えたものです。
YouTubeにもいくつかの「星めぐりの歌」がアップロードされていますが、このリンクのものがいちばん気に行っています。少しはずむような歌い方が、賢治のオリジナル楽譜に近いんじゃないかな。バックはまったく新しいものですが、シンセサイザも入った現代的なアレンジは新しいもの好きな賢治にもきっと気に入ってもらえるでしょう。そしてヴォーカルが素晴らしい。少年のような声で、まさに賢治世界からやってきたような声をもつヴォーカリストです。
残念ながら映像はありませんが、どうぞ音楽をお楽しみください。
腰痛の治療に整形外科に通う道すがら、寒さに震えながら空を見あげてみますと、冴え冴えとした夜空に星のまたたきがいつもより強く感じられました。
ふと、宮沢賢治の「星めぐりの歌」思い出しました。
"オリオンは高く歌い、露と霜とを落とす”というワンフレーズが口をついて出て来ます。
そういえば、少年の頃は宮沢賢治一色だったなぁと思います。一番強く賢治に憧れたのは少年期もいよいよ終わりを告げようとする16歳の時でした。
この歳の夏休み、私は東北地方から北海道へひとりで旅をすることにし、まず花巻へ行こうと考えました。無論、宮沢賢治の生地であり「イーハトーヴ」であるからです。
その道程はまたの機会に譲りますが、花巻ではたまたま花巻市文化会館の落成式があり、そのギャラリーで「宮沢賢治展」が開催されていました。
ユースホステルに泊まり合わせた人たちと連れ立って会場へ赴きますと、旅の若い者のグループをみつけた会場の方が「清六さん(賢治の実弟宮沢清六氏の事)がお見えになっているので、ぜひお会いなさい」と声をかけて紹介してくださいました。
私たちは大喜び、もう舞い上がってしまいましたが、清六さんはにこやかに応じてお話をしてくださいました。あの感激は未だに忘れられません。

<クリックで拡大>
左から三人目が宮沢清六さん。右端のヘナチョコが当時の私です。
この時に、宮沢賢治のつくった歌を幾つか覚えました。賢治が作詞した花巻農学校精神歌などはその素晴らしい詞に感激しました。
今宵、口ずさんだ「星めぐりの歌」もこの頃に覚えたものです。
YouTubeにもいくつかの「星めぐりの歌」がアップロードされていますが、このリンクのものがいちばん気に行っています。少しはずむような歌い方が、賢治のオリジナル楽譜に近いんじゃないかな。バックはまったく新しいものですが、シンセサイザも入った現代的なアレンジは新しいもの好きな賢治にもきっと気に入ってもらえるでしょう。そしてヴォーカルが素晴らしい。少年のような声で、まさに賢治世界からやってきたような声をもつヴォーカリストです。
残念ながら映像はありませんが、どうぞ音楽をお楽しみください。
きさいちハイキングコース(4)/番外編 ― 2009年10月28日 08時45分
私市ハイキングコースでは、初めて行った小学5年の遠足の時から、強烈というか、酸っぱいというか、そういう想い出があります。
子供ならあたりまえなのかも知れませんが、お天気も良くすばらしい遠足だったので、私達はハイテンション。しかも成績不良で素行もよろしくなかった私なんぞは、一日教室で勉強しなくても良いと言うだけでもうすっかりハイになっていました。
帰路、月輪の滝にさしかかったとき、私達は滝を迂廻する、滝道よりもだいぶん上のルートを歩いていました。覗き込めばがけの下に小川が見えます。
下の方に水面が見えれば、とにかく石を放り込んでみたくなるのが当然(?)でしょう、私もそうしようと思いましたが、しかし下に人がいたら大変(その人が怪我をするという心配ではなくて、それがどうであれ『自分が叱られる』と云う事が嫌だったので)ですから、それはいけない。でも、自然の力で勝手に落ちたのなら仕方がない。
猿程度の悪知恵を巡らせた私はピンポン球の半分くらいの石を崖の端に置いて、たまたま落ちるなり、誰かが偶然に蹴飛ばすなりすれば面白いと思い、実行しました。
それを見ていた友人の"ながやん"が、「こんなもん蹴っ飛ばしたらええんや」と云ってためらいなく蹴っ飛ばしました。
あーあ、下に人居ったら知らんでぇ…と思いながらも、石が落ちていった面白さにげらげら笑いながら歩いて行きました。
滝道と迂回路の合流するところにさしかかると、前の方でなにやら先生方とおっさんが揉めています。
一目見て私達は状況を理解しました。おっさんの額に血が滲んでいたからです。ながやんは目を見開き口をぱくぱくさせながらこっちを見ました。僕も顔色が青かったに違いありません。私が置いてながやんが蹴っ飛ばしたあの小石がおっさんにあたったのです。
おっさんは、「誰かが石を投げた」とものすごい剣幕でしたが、同様の迫力で担任のO先生が「うちの生徒がそんな事をする訳がない」ときっぱり。ながやんと私はこそこそとその脇を通り過ぎていったのです。
良心の呵責ですか?そんなもの、私市駅に着く前に無くなっていましたよ、河内磐船駅から電車に乗る時には、もうすっかり元通り。その場を逃れられればそれでOKでした。後にも学級会でこんな事があったなんて先生からのお小言もありませんでしたしね。
ながやんとは中学が違い、成人式で出会ったきりですが、どうしているのかなぁ。月輪の滝のあの事を憶えているのでしょうか?
私はそれでもやはり、その後、月輪の滝を通過するたびにこの事件の事とながやんの事を思い出します。今でも現にこうして…。
私はその後、地元である仕事に就き、その中で当時教育委員会におられたO先生と少し一緒に仕事をする事がありました。久しぶりにお会いしたそのときに「Kくん、僕の事を憶えてるか?」とO先生が仰いましたが、「忘れる訳ありませんよO先生(…あんな事件があったのですから)」と返事をすると、O先生は楽しげに笑っていらっしゃいました。私はあの話しをして余程O先生に謝ろうかと思いましたが、なんとなく云えずにその場は終わってしまいました。
そんな事を未だによく憶えているというのは、やはりそれなりに気になっていたのでしょうね。
これから先、何度この月輪の滝を通るかわかりませんが、その度にこの事は思い出すでしょう。ながやんの事も、若かったO先生の事も。
子供ならあたりまえなのかも知れませんが、お天気も良くすばらしい遠足だったので、私達はハイテンション。しかも成績不良で素行もよろしくなかった私なんぞは、一日教室で勉強しなくても良いと言うだけでもうすっかりハイになっていました。
帰路、月輪の滝にさしかかったとき、私達は滝を迂廻する、滝道よりもだいぶん上のルートを歩いていました。覗き込めばがけの下に小川が見えます。
下の方に水面が見えれば、とにかく石を放り込んでみたくなるのが当然(?)でしょう、私もそうしようと思いましたが、しかし下に人がいたら大変(その人が怪我をするという心配ではなくて、それがどうであれ『自分が叱られる』と云う事が嫌だったので)ですから、それはいけない。でも、自然の力で勝手に落ちたのなら仕方がない。
猿程度の悪知恵を巡らせた私はピンポン球の半分くらいの石を崖の端に置いて、たまたま落ちるなり、誰かが偶然に蹴飛ばすなりすれば面白いと思い、実行しました。
それを見ていた友人の"ながやん"が、「こんなもん蹴っ飛ばしたらええんや」と云ってためらいなく蹴っ飛ばしました。
あーあ、下に人居ったら知らんでぇ…と思いながらも、石が落ちていった面白さにげらげら笑いながら歩いて行きました。
滝道と迂回路の合流するところにさしかかると、前の方でなにやら先生方とおっさんが揉めています。
一目見て私達は状況を理解しました。おっさんの額に血が滲んでいたからです。ながやんは目を見開き口をぱくぱくさせながらこっちを見ました。僕も顔色が青かったに違いありません。私が置いてながやんが蹴っ飛ばしたあの小石がおっさんにあたったのです。
おっさんは、「誰かが石を投げた」とものすごい剣幕でしたが、同様の迫力で担任のO先生が「うちの生徒がそんな事をする訳がない」ときっぱり。ながやんと私はこそこそとその脇を通り過ぎていったのです。
良心の呵責ですか?そんなもの、私市駅に着く前に無くなっていましたよ、河内磐船駅から電車に乗る時には、もうすっかり元通り。その場を逃れられればそれでOKでした。後にも学級会でこんな事があったなんて先生からのお小言もありませんでしたしね。
ながやんとは中学が違い、成人式で出会ったきりですが、どうしているのかなぁ。月輪の滝のあの事を憶えているのでしょうか?
私はそれでもやはり、その後、月輪の滝を通過するたびにこの事件の事とながやんの事を思い出します。今でも現にこうして…。
私はその後、地元である仕事に就き、その中で当時教育委員会におられたO先生と少し一緒に仕事をする事がありました。久しぶりにお会いしたそのときに「Kくん、僕の事を憶えてるか?」とO先生が仰いましたが、「忘れる訳ありませんよO先生(…あんな事件があったのですから)」と返事をすると、O先生は楽しげに笑っていらっしゃいました。私はあの話しをして余程O先生に謝ろうかと思いましたが、なんとなく云えずにその場は終わってしまいました。
そんな事を未だによく憶えているというのは、やはりそれなりに気になっていたのでしょうね。
これから先、何度この月輪の滝を通るかわかりませんが、その度にこの事は思い出すでしょう。ながやんの事も、若かったO先生の事も。
兎ガ原を探して(4)/番外編 ― 2009年10月15日 09時13分
とりあえず兎ガ原の名称は過去に存在したという事がわかりましたし、場所の特定も出来ました。
そこで、当時の写真は無いものか?とネガボックスをひっくりかえしてみたものの、兎ガ原を、もしくは兎ガ原で撮影したと思われるものを探し当てる事は出来ませんでした。引き続き探してゆくつもりです。
その代わりと云ってはなんですが、1976年に私市ハイキングコース(もっとも、ネガのスリーブには「府民の森」と記入してありました。当時できたばかりの「府民の森」という名前が目新しかったのでしょうね)で撮影した写真がありましたので、他人様にお見せできる程度の出来のものを選んで掲載します。
当時の府民の森の様子などあんまり判らない写真ですが、服装などをみると、大変懐かしい感じがします。当日の事もよく憶えておりますし、あれから三十数年が経ったなど信じられないような気持ちです。今、一人でこの場所に立ってみれば、実はすぐこの先に友だち達が歩いていて、はやく来いと呼んでいる…そんな、今が1976年かも知れないなんて感覚にとらわれるかも知れません。

これは月輪の滝の上流辺りで撮影したと記憶しています。高校一年生のクラスでハイキングに行った時の写真です。
この子は小さな手提げを持っていますが、驚いた事に当日リュックを背負っていたのは私ひとりで、他のほぼ全員が手提げ、数人がショルダーバッグという、およそハイキングには適しないバッグを持っていました。それどころか、革靴だったりまたブレザーを着ていたりと…お洒落したいという気持ちはわかるけど、とりあえずハイキングだぞ…と思ったものです。この子のオーバーオール+スニーカーなんかは、上出来な方でした。

こちらは整備されつつあった府民の森で。恐らく浮見堂だと思います、睡蓮池ほど開けた場所ではありませんでしたから。
この子は当時つきあっていた子で、彼女の写真を随分とたくさん撮ったつもりでしたが、今、ネガをチェックしてみると大した数ではなく、がっかりしています。確かに今の撮影数と当時では、感覚も違いますし経済的に制限があったでしょうから、今の物差しで当時の事を測ってはいけないのでしょうが、それにしても、少し残念です。
当時のカメラはニコマートFTnでレンズは35mmF2でした。今から考えても万能のレンズだったと思いますが、ポートレートは撮るべきではありませんでしたね。もう少し歪曲などの知識を有しておくべきでした。
フィルムはイルフォードHP4。非富士、非さくら、非コダックということで、当時数本だけ使ったものです。殆どはネオパンSSSの100フィートをカットして使っていました。この時のイルフォードで撮ったものは美しかったですね。そのトーンに驚いたものです。でもケチな高校生だった私は安価なSSSを使い続けました。
当時、現像液はミクロファインを使い、ダイヤ(樫村)のベルト式フレキシブルタンクという硬質ゴム製のタンクで現像していました。このタンクは35mm1本~3本または120ロール1本~2本、のぞめば35mm1本+120ロール1本の混在などという離れ業の現像ができ、文字通り現像本数においてもフレキシブルで非常に便利でした。
これらのネガはグリシン紙のスリーブに入れ、お菓子の缶にカビシャットとともに保存してありましたが、残念ながらカビにやられ表面がみみず腫れのようになっているものが散見されます。またこの時期から使い始めた富士のポリプロピレン?(ポリエチレン?)製のネガカバーの方は銀化しているものが散見されます。当時はアーカイバルの概念など知らない高校生でしたので、不勉強が悔やまれます。もっとも、アーカイバルの概念を知った時点で、ネガの保存方法を変えれば、こんなことにはならなかったのかも知れません。
それでもまだ、プリントは十分にできる状態にありますので、大切なコマからアーカイバル処理のプリントにして、保存しておこうと考えています。
撮った数は大したことはないとはいえ、私市ハイキングコースはいい撮影場所でした。ここで撮ったものを作品として高校の文化祭に出展したりしましたしね。
寒くならないうちにハイキングにでも出かけ、次回の「兎ガ原」エントリには、現在の兎ガ原の様子を撮影してきたいと考えています。
そこで、当時の写真は無いものか?とネガボックスをひっくりかえしてみたものの、兎ガ原を、もしくは兎ガ原で撮影したと思われるものを探し当てる事は出来ませんでした。引き続き探してゆくつもりです。
その代わりと云ってはなんですが、1976年に私市ハイキングコース(もっとも、ネガのスリーブには「府民の森」と記入してありました。当時できたばかりの「府民の森」という名前が目新しかったのでしょうね)で撮影した写真がありましたので、他人様にお見せできる程度の出来のものを選んで掲載します。
当時の府民の森の様子などあんまり判らない写真ですが、服装などをみると、大変懐かしい感じがします。当日の事もよく憶えておりますし、あれから三十数年が経ったなど信じられないような気持ちです。今、一人でこの場所に立ってみれば、実はすぐこの先に友だち達が歩いていて、はやく来いと呼んでいる…そんな、今が1976年かも知れないなんて感覚にとらわれるかも知れません。

これは月輪の滝の上流辺りで撮影したと記憶しています。高校一年生のクラスでハイキングに行った時の写真です。
この子は小さな手提げを持っていますが、驚いた事に当日リュックを背負っていたのは私ひとりで、他のほぼ全員が手提げ、数人がショルダーバッグという、およそハイキングには適しないバッグを持っていました。それどころか、革靴だったりまたブレザーを着ていたりと…お洒落したいという気持ちはわかるけど、とりあえずハイキングだぞ…と思ったものです。この子のオーバーオール+スニーカーなんかは、上出来な方でした。

こちらは整備されつつあった府民の森で。恐らく浮見堂だと思います、睡蓮池ほど開けた場所ではありませんでしたから。
この子は当時つきあっていた子で、彼女の写真を随分とたくさん撮ったつもりでしたが、今、ネガをチェックしてみると大した数ではなく、がっかりしています。確かに今の撮影数と当時では、感覚も違いますし経済的に制限があったでしょうから、今の物差しで当時の事を測ってはいけないのでしょうが、それにしても、少し残念です。
当時のカメラはニコマートFTnでレンズは35mmF2でした。今から考えても万能のレンズだったと思いますが、ポートレートは撮るべきではありませんでしたね。もう少し歪曲などの知識を有しておくべきでした。
フィルムはイルフォードHP4。非富士、非さくら、非コダックということで、当時数本だけ使ったものです。殆どはネオパンSSSの100フィートをカットして使っていました。この時のイルフォードで撮ったものは美しかったですね。そのトーンに驚いたものです。でもケチな高校生だった私は安価なSSSを使い続けました。
当時、現像液はミクロファインを使い、ダイヤ(樫村)のベルト式フレキシブルタンクという硬質ゴム製のタンクで現像していました。このタンクは35mm1本~3本または120ロール1本~2本、のぞめば35mm1本+120ロール1本の混在などという離れ業の現像ができ、文字通り現像本数においてもフレキシブルで非常に便利でした。
これらのネガはグリシン紙のスリーブに入れ、お菓子の缶にカビシャットとともに保存してありましたが、残念ながらカビにやられ表面がみみず腫れのようになっているものが散見されます。またこの時期から使い始めた富士のポリプロピレン?(ポリエチレン?)製のネガカバーの方は銀化しているものが散見されます。当時はアーカイバルの概念など知らない高校生でしたので、不勉強が悔やまれます。もっとも、アーカイバルの概念を知った時点で、ネガの保存方法を変えれば、こんなことにはならなかったのかも知れません。
それでもまだ、プリントは十分にできる状態にありますので、大切なコマからアーカイバル処理のプリントにして、保存しておこうと考えています。
撮った数は大したことはないとはいえ、私市ハイキングコースはいい撮影場所でした。ここで撮ったものを作品として高校の文化祭に出展したりしましたしね。
寒くならないうちにハイキングにでも出かけ、次回の「兎ガ原」エントリには、現在の兎ガ原の様子を撮影してきたいと考えています。
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