国鉄忍ヶ丘駅1977年8月 ― 2010年04月27日 10時06分
古いネガフィルムの整理をしていて、昔の国鉄片町線忍ヶ丘駅が写っているフィルムを見つけました。一部に痛みがありましたが、スキャナで読んでみました。そういえばこんなだったなぁと思い出しました。
<クリックで拡大>
忍ヶ丘駅は戦後1953年に作られた民衆駅で、この駅ができるまで北河内郡四條畷町には鉄道駅がありませんでした。ご覧の通り駅舎もささやかなもので、貨物取扱のあった四条畷駅とは大違い、しかも四条畷駅は大東市にあります。
この写真を撮った頃にはすでに複線高架化工事が始まっていて、駅舎も取り壊される寸前と言っても良い時期では無かったかと思います。写真を拡大してただいて改札の奥を見ていただくと、材木の足場とその向こうにコンクリートの橋脚のようなものが見えます。
「忍ヶ丘駅」の看板がなんだか手書き風で泣かせますね。改札口はかつては木造でしたが金属製のものに変えられています。柱に下げられた琺瑯製の「長尾行」のプレートがこれまた泣かせます。たしか紺地に白文字でした。この頃は発車の5分程度前に改札が開きましたので、乗客は皆さん改札や駅舎の外で待っています。右手の窓の向こうが待合室です。奥の壁には「トラベルフォトニュース」の掲示板があります。改札の右横にはライオンズクラブの寄贈した「護美箱」がおかれ、市内小学生などが描いた啓発ポスターがゴミ箱の上の鏡の下に掲示されています。
駅舎左手の自動券売機、60円~340円、それ以上は窓口で買わなければなりません。自動券売機に並ぶ人のために波板の簡易な屋根が後から付け足されています。この自動販売機のある場所、昔は小荷物を預けるカウンターかなにかだったはずで、黒っぽい御影石の立派なカウンター(当時はベンチだと思っていた)があったはずです。
券売機の上の運賃表は近郊各路線の運賃が書いてあります。片町線だと木津まで270円、環状線だと大正が一番遠くて230円、桜島線の桜島が230円、東海道線は下りが六甲道上りが高槻で340円、関西本線天王寺経由は王子が340円、木津経由は笠置が340円、桜井線は櫟本が340円、奈良線は城陽が340円、阪和線は和泉府中が340円、福知山線は宝塚が340円となっています。
その隣のポスターはよく読めないのですが「8月催物情報・行事案内」でしょうかね?アサヒペンと玉姫殿の広告が入っています。そのとなりは弁天町の交通科学館、今は交通科学博物館ですね、「夏休みのりもの科学教室」のイベントが告知されています。広告はタケダハムですね。
画面右奥には廃枕木で作ったホームの柵が見えその向こうに桜の木が見えます。国鉄の多くの駅がそうであったように、忍ヶ丘駅にも桜の木が植えられていて、春にはそれは美しいものでした。花の終りになると電車の巻き起こす風で桜吹雪になって。そのあと毛虫がやってくるのは仕方の無いことで、嫌だけれど、誰もがそんなものだと思っていましたね。仕方の無いこととはいえ、駅がだんだんに無機質になって行くのは嫌なものです。コストをかけらないという理由があるでしょう、優先すべきことではないとは思いますが、何が何でも桜の樹を残すのだという意気込みくらいは欲しいですね。JRではできないから地元でやってくれないかと言うくらいの。駅は公共施設です。自治体ももっと負担すべきです。
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夜景です。待っている女性の後ろが出札口。奥には硬券の棚が見えます。改札の向こう側に見える生花の展示台ですが、今も駅構内にあります。当時のものと同じかどうかはわかりませんが、同じだとすれば唯一の当時の駅の名残かもしれません。今も、定期的に未生流の美しい生花が飾られています。よき伝統だと思いますね。
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夜のプラットホームです。屋根はほんの僅かだけ。雨の日は大変でした。廃レールを使った鉄骨でつくられているのはもうお約束みたいなものでしょうね。
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夜の踏切です。画面右手には工事中のフェンスが貼られています。後ろに京阪バスのバス停が見えます。この景色ももうすっかり変わってしまい殆ど名残はありません。
こうしてみると、随分と時間が通り過ぎたのだなと思います。33年も前の話だなんて、解ってはいるけれども実感はないという感じがします。
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忍ヶ丘駅は戦後1953年に作られた民衆駅で、この駅ができるまで北河内郡四條畷町には鉄道駅がありませんでした。ご覧の通り駅舎もささやかなもので、貨物取扱のあった四条畷駅とは大違い、しかも四条畷駅は大東市にあります。
この写真を撮った頃にはすでに複線高架化工事が始まっていて、駅舎も取り壊される寸前と言っても良い時期では無かったかと思います。写真を拡大してただいて改札の奥を見ていただくと、材木の足場とその向こうにコンクリートの橋脚のようなものが見えます。
「忍ヶ丘駅」の看板がなんだか手書き風で泣かせますね。改札口はかつては木造でしたが金属製のものに変えられています。柱に下げられた琺瑯製の「長尾行」のプレートがこれまた泣かせます。たしか紺地に白文字でした。この頃は発車の5分程度前に改札が開きましたので、乗客は皆さん改札や駅舎の外で待っています。右手の窓の向こうが待合室です。奥の壁には「トラベルフォトニュース」の掲示板があります。改札の右横にはライオンズクラブの寄贈した「護美箱」がおかれ、市内小学生などが描いた啓発ポスターがゴミ箱の上の鏡の下に掲示されています。
駅舎左手の自動券売機、60円~340円、それ以上は窓口で買わなければなりません。自動券売機に並ぶ人のために波板の簡易な屋根が後から付け足されています。この自動販売機のある場所、昔は小荷物を預けるカウンターかなにかだったはずで、黒っぽい御影石の立派なカウンター(当時はベンチだと思っていた)があったはずです。
券売機の上の運賃表は近郊各路線の運賃が書いてあります。片町線だと木津まで270円、環状線だと大正が一番遠くて230円、桜島線の桜島が230円、東海道線は下りが六甲道上りが高槻で340円、関西本線天王寺経由は王子が340円、木津経由は笠置が340円、桜井線は櫟本が340円、奈良線は城陽が340円、阪和線は和泉府中が340円、福知山線は宝塚が340円となっています。
その隣のポスターはよく読めないのですが「8月催物情報・行事案内」でしょうかね?アサヒペンと玉姫殿の広告が入っています。そのとなりは弁天町の交通科学館、今は交通科学博物館ですね、「夏休みのりもの科学教室」のイベントが告知されています。広告はタケダハムですね。
画面右奥には廃枕木で作ったホームの柵が見えその向こうに桜の木が見えます。国鉄の多くの駅がそうであったように、忍ヶ丘駅にも桜の木が植えられていて、春にはそれは美しいものでした。花の終りになると電車の巻き起こす風で桜吹雪になって。そのあと毛虫がやってくるのは仕方の無いことで、嫌だけれど、誰もがそんなものだと思っていましたね。仕方の無いこととはいえ、駅がだんだんに無機質になって行くのは嫌なものです。コストをかけらないという理由があるでしょう、優先すべきことではないとは思いますが、何が何でも桜の樹を残すのだという意気込みくらいは欲しいですね。JRではできないから地元でやってくれないかと言うくらいの。駅は公共施設です。自治体ももっと負担すべきです。
<クリックで拡大>
夜景です。待っている女性の後ろが出札口。奥には硬券の棚が見えます。改札の向こう側に見える生花の展示台ですが、今も駅構内にあります。当時のものと同じかどうかはわかりませんが、同じだとすれば唯一の当時の駅の名残かもしれません。今も、定期的に未生流の美しい生花が飾られています。よき伝統だと思いますね。
<クリックで拡大>
夜のプラットホームです。屋根はほんの僅かだけ。雨の日は大変でした。廃レールを使った鉄骨でつくられているのはもうお約束みたいなものでしょうね。
<クリックで拡大>
夜の踏切です。画面右手には工事中のフェンスが貼られています。後ろに京阪バスのバス停が見えます。この景色ももうすっかり変わってしまい殆ど名残はありません。
こうしてみると、随分と時間が通り過ぎたのだなと思います。33年も前の話だなんて、解ってはいるけれども実感はないという感じがします。
コメント
_ ミッキー・オオハタ ― 2010年05月07日 20時25分
_ たのけのあむら ― 2010年05月10日 09時32分
>ミッキー・オオハタさん
御返事が遅れまして申し訳ありませんでした。
四條畷にいらっしゃったんですね。四条畷駅の方が近いと言うことは国道よりも南にお住まいだったのでしょうか?
往時の忍ヶ丘駅は本当に小さくて、私も子供ながら、親類の家がある大阪市内の環状線の駅と比べるまでもなく、小さいなぁと感じていました。その小ぢんまりさが快適でもありました。電車がぎりぎりだと改札など無視してホームの先端から飛び乗る、そのために出発もちょっと待ってくれるなど牧歌的でもありましたね。ホーム対面の雑草地帯ですが、雑草に覆われる以前には田んぼがあって養鶏場がありました。ですからけっこう草は刈り込まれていて、ザリガニの取れる小さな池…水たまりと言ってもよいでしょう…もありました。
忍ヶ丘は民衆駅で、おそらく長尾までの各駅の中で最も小さかったかと思います。星田や津田などは貨物の取扱もできる立派なものでしたし、河内磐船くらいが同じ程度の規模でしたでしょうか?余談ですが河内磐船駅にはホームに井戸があり、ここでハイキング帰りの乗客が靴を洗ったりしていたんですよ。
歳をとると昔のことばかり思い出されてしまいます。また古い写真があれば掲載しますのでなにとぞ再び御覧いただけますよう、お願いいたします。
お返事の遅れ、大変失礼致しました。
御返事が遅れまして申し訳ありませんでした。
四條畷にいらっしゃったんですね。四条畷駅の方が近いと言うことは国道よりも南にお住まいだったのでしょうか?
往時の忍ヶ丘駅は本当に小さくて、私も子供ながら、親類の家がある大阪市内の環状線の駅と比べるまでもなく、小さいなぁと感じていました。その小ぢんまりさが快適でもありました。電車がぎりぎりだと改札など無視してホームの先端から飛び乗る、そのために出発もちょっと待ってくれるなど牧歌的でもありましたね。ホーム対面の雑草地帯ですが、雑草に覆われる以前には田んぼがあって養鶏場がありました。ですからけっこう草は刈り込まれていて、ザリガニの取れる小さな池…水たまりと言ってもよいでしょう…もありました。
忍ヶ丘は民衆駅で、おそらく長尾までの各駅の中で最も小さかったかと思います。星田や津田などは貨物の取扱もできる立派なものでしたし、河内磐船くらいが同じ程度の規模でしたでしょうか?余談ですが河内磐船駅にはホームに井戸があり、ここでハイキング帰りの乗客が靴を洗ったりしていたんですよ。
歳をとると昔のことばかり思い出されてしまいます。また古い写真があれば掲載しますのでなにとぞ再び御覧いただけますよう、お願いいたします。
お返事の遅れ、大変失礼致しました。
_ ツカ ― 2011年02月12日 20時53分
こんばんは。地上時代の忍ヶ丘駅の画像をいろんな角度から初めて拝見しました。正面以外で踏切等を一度は見たいと思っていまして、32年たってようやく願いが叶えられて感激しました。私はこの写真の翌年、1978年10月に寝屋川市にある打上団地に引っ越してきたのですが、当時は、東寝屋川駅がなく、20分ほど歩いて駅まで行ったものです。その頃の忍ヶ丘駅はちょうど現在の長尾方面のホームだけが高架になったばかりみたいで、改札はそのままながら、改札からホームまで仮設シートや板張り通路になっていた様な気がします。京阪沿線と違い、すべての車両がクーラーなしだったことが、当時幼かった私にはショックだったことが懐かしく思い出されます。
_ たのけのあむら ― 2011年02月13日 20時51分
>ツカさん
コメントをありがとうございます。
'78年というとそうですね、まだ東寝屋川駅は無くて、ちょっとしたトンネルでしたねぇ。怪談もありましたよ、あのトンネル。
この写真の忍ヶ丘駅もまもなく高架上にホームが移る頃だったかと思います。ホームの向こう側に階段のようなものが見えていますからね。
車両もまだ古かったですねぇ、それでも環状線と同じ車両がやってくるなど、ちょうど交代の時期だったかと思います。冷房車両はまだなかったんですね。暑かったなぁ。
そういえばなんですが、先日、踏切の近くに「踏切」の道路標識を見つけました。撤去されていなかったんですね、今までぜんぜん気づきませんでした。撤去される前に写真を撮ってアップしますね。
コメントをありがとうございます。
'78年というとそうですね、まだ東寝屋川駅は無くて、ちょっとしたトンネルでしたねぇ。怪談もありましたよ、あのトンネル。
この写真の忍ヶ丘駅もまもなく高架上にホームが移る頃だったかと思います。ホームの向こう側に階段のようなものが見えていますからね。
車両もまだ古かったですねぇ、それでも環状線と同じ車両がやってくるなど、ちょうど交代の時期だったかと思います。冷房車両はまだなかったんですね。暑かったなぁ。
そういえばなんですが、先日、踏切の近くに「踏切」の道路標識を見つけました。撤去されていなかったんですね、今までぜんぜん気づきませんでした。撤去される前に写真を撮ってアップしますね。
_ Yuki.Sanda ― 2012年08月12日 22時59分
単線の良い感じですね。たしか、次駅の星田で上り下りの行き違いをしていましたね。この駅は子供の頃、何度か降りたことがあります。山が近くの良い所だったと記憶しています。実は山側のY字路の真ん中に、知り合いの喫茶店がありました。このコメントを偶然読んだら誰だか気づくかな?
_ たのけのあむら ― 2012年08月16日 14時58分
Yuki.Sandaさんこんにちは。コメントをありがとうございました。
忍ヶ丘のこと、ご存知なんですね。仰っていた喫茶店というのはY字路の左側でしょうか?あそこにはクリーニング店、美容室、喫茶店、理容店、化粧品店とならんでいたと思います(すぐに走って確かめてくれば良いのですが…)。化粧品店は「秀香堂」と言って同級生の家です。もうお母様もご高齢でお店はたたまれたとは思いますが。
いつかまたふらりとお立ち寄りください、ご存知かもしれませんが、大きく変わっています。
忍ヶ丘のこと、ご存知なんですね。仰っていた喫茶店というのはY字路の左側でしょうか?あそこにはクリーニング店、美容室、喫茶店、理容店、化粧品店とならんでいたと思います(すぐに走って確かめてくれば良いのですが…)。化粧品店は「秀香堂」と言って同級生の家です。もうお母様もご高齢でお店はたたまれたとは思いますが。
いつかまたふらりとお立ち寄りください、ご存知かもしれませんが、大きく変わっています。
_ Can you stretch to get taller? ― 2017年09月04日 00時42分
Nice answers in return of this query with firm
arguments and telling the whole thing about that.
arguments and telling the whole thing about that.
_ ジャリやん ― 2018年09月04日 12時38分
私は昭和40年頃忍ヶ丘駅で助役さんと二人で改札及び雑役等をしていました。自分が勤務していた時の写真を見て懐かしく思いました。大阪鉄道高校を卒業して初めての職場でした。最終電車が出てから、始発電車まで駅舎内の二段ベッドで寝ていた時新人助役さんが上のベッドで寝ていた、自分の横に潜り混んで来た時は逃げ出しました❗どうもあっちの気があったみたいです😁
_ RYU ― 2019年07月17日 22時46分
小学校4年か5年の頃、この忍ヶ丘駅から西にある、神社の近く(砂という字名でした)に住んでおりました。訳あって、この駅から大阪市東住吉区の加美という駅まで、1月ほど電車通学していた時があります。朝6時2分の電車に乗ると、住道を過ぎたあたりからは、動くこともできないほど満員になったことを思い出します。駅の改札に近い国道の踏切をわたって少し北へいくと、たしか忍ヶ丘ストアというショッピングセンターがあったと思います。またそのすぐそばの国道沿いにプラモデルを売っているお店があって時々買いに行ったことを覚えています。駅から東にある里山の墓地は、かぶと虫やくわがたの取れるスポットで、夏休みには毎日のように行きました。何年か前に車で忍ヶ丘駅に行きましたが、あまりの変わりように驚きました。当時の面影はまったくありませんでした。かろうじて忍ヶ丘神社を見つけることができただけでした。まさか、地上駅一面一線単線当時の忍ヶ丘駅を見ることができるとはおもいませんでした。非常になつかしいです。よくぞ、写真を残しておいてくださいました。ありがとうございます。
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はじめまして。
「国鉄片町線」で検索しておりましたら、こんな懐かしい画像と出会うことが出来、うれしい思いです。
私の生家は四條畷ですが、四条畷駅の方が近く、この写真より前に所用で母親と徒歩で忍ヶ丘まで来たのが一番古い記憶です。一面一線の小さな駅に驚いたのと、ホームの向かい側は雑草だらけだったような・・・。
小学一年生の頃、学校が終わると友達と四条畷駅から電車に乗り、よく長尾方面に行きました。
河内磐船で京阪電車を見て驚いたり、長尾では片町線にはまだ先があるのをはじめて知ったり・・・
その時、下車こそしませんが、「忍ヶ丘」駅は家から離れる、また、帰ってきたことを感じさせてくれた「小さな」駅でした。
中学生になった年、長尾まで複線高架化されると「忍ヶ丘」「星田」「河内磐船」が同じような駅になってしまい、何とも面白くない気分でした。ガキながら「便利になると風情も無くなるのかな・・・」みたいな事を感じたのでしょう。
複線化自体はすごく楽しみだっただけに・・・
今になって、そのとき感じたことがあながち的はずれでないことが寂しい気がします。
長々と手前勝手な事ばかり書いてしまいましたが、この記事と写真を見て子どもの頃の事を思い出し、楽しい気分になりました。また、こういった記事を楽しみにしています。
ありがとうございました。