きさいちハイキングコース(6)/戦前のパンフレット(1)2010年05月10日 09時33分

 黄金週間に少し長いお休み頂きました。
 この間にオークションで、戦前のものと思われる古い私市ハイキングコースのパンフレットを落札し、非常に興味深く読んでおりました。


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 表紙のイラストや書体や色使いが昭和モダンで非常に格好良く出来上がっています。これは素晴らしい。


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 私がまず興味を引かれたのが、路線図にかつて存在した交電磐船駅が記載されていることです。このまま駅があったらさぞや片町線からの乗り換えが便利なことだったのになぜ廃止されてしまったのでしょう?
 またこの路線図には現在の宮之阪駅(当時の中宮駅)が記載されていません、このことからWikiの記述を参考にすると、
1939年(昭和4年)(下線部ママ)5月14日 信貴電磐船駅を交電磐船駅に改称。
1940年(昭和15年)9月11日 中宮駅(現在の宮之阪駅)開業。
 とあります。前後の年代記載から括弧内の「昭和4年」という記述はミスでしょう。このことからこのパンフレットは1939年5月~1940年9月の1年4ヶ月の間に発行されたと推測できます。

 ハイキングコースの見どころの記載もあたりまえですが、現在と幾分違います。獅子窟寺や月輪の滝などおなじみのところもあります。獅子窟寺近くの百重原陵ってのは今でいう「王の墓」のことでしょうね、獅子窟寺奥の院の巨石は今も変わらずあります。
 私市駅すぐの「文化農園」とそこから月輪の滝への途中にある「大覚山妙見」というのはどこなのでしょう?月輪の滝から向こうの「金龍窟」「お月岩」というのも気になります。歩いて確かめに行ってこなくてはなりませんね。

 他にも興味の尽きない内容になっています。このパンフレットの反対側は、各名所の解説になっています。次回ご紹介いたします。

きさいちハイキングコース(7)/戦前のパンフレット(2)2010年05月12日 09時49分

 戦前の磐船・私市パンフレット。今度は内側の、名所見所を解説してある方をご覧下さい。


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 名所は今とほぼ変りないですね。
 影も形もなくなっていそうなのは、「文化農園」と「大覚山妙見」ですが、何らかの痕跡はあるのかも知れません。地元の相当な古老でもいらっしゃればわかるかも知れないのですが。

 「鮎返しの滝」の雨乞いに関する記述は、行政好みだと思って検索してみると、行政のものもありましたが、こちらのウェブサイトの記述が大変面白かったです。
「交野歴史健康ウォーク」
 ウェブサイト全体が記述も詳しく素晴らしいです。


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 さて、ページ後半です。
 獅子窟寺に宿坊があったと言うのは驚きです。倉治の桃林については、前回のエントリーのコメントで、岩清水ゲイリーさんが現在の神宮寺地区のぶどう畑ではないか?と仰っています。「修養団関西道場」というなにやら軍国主義右翼くさい施設について、施設自体はもう無くなっているようですが、驚いたことに組織はまだ健在で、企業が研修に利用しているとか。

 名所の解説は現在と変わらず新味ありませんが、右下のカコミに記されている「いわぶねの四季たより」に「蟹狩り」「山桜桃狩り」などというものがあったのですね。蟹ってやはり沢蟹でしょう。素揚げにして食べるのでしょうか?
 キャンプなども結構盛んだったのか、私の父も友ヶ島へキャンプに出かけたと入ってました。余談ですが、その際の食料に自分で牛肉の大和煮の、なんと缶詰を作っていったと言ってました。密封はハンダ付けをしたとか言うむちゃくちゃな話で、現地で開けたら腐ってたとか言ってました。
 夏の「滝浴び」なんてのは、子供の頃にしましたねぇ。

冬の「兎狩」というのもすごいですね。どうやって狩ったのでしょう?まさか銃をぶっぱなしたんじゃないでしょうね?

 また思ったのは「いわぶね」と、ちゃんと(?)「ふね」が濁音化されていることです。昔はこう言っていたのでしょうか?昔の表記では「いわふね」と濁音化せずに表記されていても実際に読む際には「いわぶね」と濁音化することがよくあるように思います。表記と読みでは違う事がままあるように思います。断片的に調べたのですが、複合語である場合にはハ行は濁音化するみたいです。しかしここは複合語ではあるけれど地名だからということで清音化されたのでしょうか?よくわかりません。
 折りたたむとはがき程度の小さいパンフレットですが、とても楽しめます。また資料としても興味深く、競り落としたので高かったですが、その分を補っても余りある値打ちがあります。

 昭和30年代~40年代のパンフレットなども出てくれたら嬉しいのですが、あまり古色が無いので出ないのでしょうか。

きさいちハイキングコース(8)/1976年の私市駅2010年05月14日 00時00分

 古いネガフィルムを整理していて、昔の私市駅が少しわかるものが出てきました。1976年3月のものです。


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 これがハイキング帰りの格好かなぁと思わせる服装ですが、以前のエントリで少し触れた、高校1年のクラスでハイキングに出かけた時のものです。右側の級友はブレザーにペーパーバッグという怪しからぬ出で立ちです。彼とは今でもちょくちょく会ったりするので、次回はこの写真を持っていって、恥ずかしいめに遭わせてやろうと思います。

 お馬鹿な話はさておき、この1976年3月当時、この写真では私市駅の駅舎が三角屋根だったのかどうか。ひさしを支える柱は瓦屋根の旧駅舎のものと同じなので、もしかしたらこの当時はまだ三角屋根ではなかったのかも知れません。


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 こちらはホーム側を写したものですが、手前の人物が真っ黒。完全に露出の失敗なんですが、それが奏功して後ろのプラットホームなどは細部が分かる程度に写っています。

 それにしても、もっと当時の様子がよくわかるものを撮っておけばよかったと思いますね。50歳を過ぎてやっとそのことがわかりました。これから先、いつまで生きられるかわかりませんが、これからはいろいろと写しておこうと思っています。


 こちらは同じ年の9月の私市駅です。この写真のファイル名をご覧になった方には1977年3月私市駅01.jpgと見えますが、これは記憶の間違いでつけたファイル名で、正しくは1976年9月です。
 古い京阪1300系電車です。当時でもすでに古い電車でしたが、いい佇まいですね。私は当時から好きでした。



 こちらは1976年の女子高校生です…と書くと怪しいブログになっちゃいますね。
 こちらも以前のエントリで写真を掲載した当時の彼女です。
 車内の様子はよくわかりませんが、窓の外の景色は今とさして変わらないように思えます。

 こちらはおまけ。同じ日の国鉄河内磐船駅です。どうやら当時、すでに複線化工事が始まっていたのか、この旧プラットホーム(現在の京橋方面行ホーム)は、すでに雑草に覆われています。こちらのホームを撮影できると言うことは、当時新しく出来ていた、現在の長尾方面行きホームがすでに使われていてたという事ですね。地下道ももう完成していたのでしょうか?



 それにしても、ホームの背景は田んぼばかりの、なんとも長閑な景色が広がっています。