きさいちハイキングコース(9)/昭和28年のパンフレット2010年09月20日 23時59分



 今回、戦後のパンフレットを見つけて購入しました。もっとも知りたい昭和40年代にはなかなか辿り着けません。


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 さて、中身を見てみますと、基本的にあまり変わりありませんが、大阪市立大学植物園の案内が乗っているのがわかります。植物園、戦前は、大阪市立興亜拓殖訓練道場と言う、満蒙開拓団を送るために職業と軍事の訓練をする施設がでした。私の前職の生徒の父親がここで訓練を受けたことがあると仰っていました。戦前のパンフレットにはまったくそのような記述はありませんでした。倉治の修養団道場は記載されていましたが…。

 このパンフレットで面白いのがこんなコースが記載されていることでしょうか?
私市駅-3.5粁-磐船神社(岩窟くヾり)-2粁-星田妙見-1粁-星田-2粁-寝屋(明光寺)-2粁-成田山不動尊-1.5粁-香里園駅

 使われている地形図が、おそらく戦前のものです。横書き文字が右から読むようになっています。
 星田妙見から寝屋を経由して成田山不動尊、でもって香里園駅に行くという、国鉄には乗せず絶対京阪に乗せると言う…まぁ京阪で来たはずですからそれでよいのでしょうが…コースが設定されていることです。寝屋の在所へは山根街道を行くのでしょうが、そこから成田山へは、一旦、たち川と北谷川が合流するところへ降り、また現在の三井秦団地を抜けて成田山へ向かうわけですが、まだ三井秦団地のできる前ですから、いったいどんな道を行ったのでしょう?今でもその道があるのかどうか、興味あるところです。いくつか推定される道はあるのですが、定かではありません。成田山から香里園駅は、聖母女学院へ至る道と駅からの通学路におそらく間違いはないかと思うのですが。
 いずれ、歩くなり、自転車なりで訪ねてみたいですね、ただし、星田か寝屋あたりから…。


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きさいちハイキングコース(8)/戦前のパンフレット(3)2010年07月24日 14時18分

 私市ハイキングコースのパンフレットを相次いで入手しましたのでご紹介します。今回は、前回のパンフレットの簡易版のようなものかと思っていましたが、前回のものよりも古いものではないかと思われます。


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体裁は真ん中で横2つ折れになっています。


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 内容の面、最後のところに「私市・磐船廻遊コース」と記された囲みがありますが、そこには「枚方東口-(信貴生駒電車15分-私市」と描かれています。先にご紹介したパンフレットでは「交野電車」となっていますし信貴電磐船駅の記載もありませんので、どうやらこれは昭和10年11月以前のものかなぁと考えています。

 Wikiから年表を引用しますと、
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1929年(昭和4年)7月10日 信貴生駒電鉄が枚方東口(現在の枚方市) - 私市間を開業。
1930年(昭和5年)10月21日 河内森駅開業。
1935年(昭和10年)12月2日 信貴電磐船駅開業。同日開業の片町線の河内磐船駅との接続駅。
1939年(昭和14年)5月1日 交野電気鉄道に譲渡。交野線となる。
1939年(昭和4年)5月14日 信貴電磐船駅を交電磐船駅に改称。
1940年(昭和15年)9月11日 中宮駅(現在の宮之阪駅)開業。
1945年(昭和20年)5月1日 京阪神急行電鉄が交野電気鉄道を合併。交電磐船駅を京阪神磐船駅に改称。
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 となっています。

 それはさておき、今でも時々話題にのぼる京阪交野線の生駒延伸構想。実は戦前の当時から信貴生駒電鉄として構想があったようです。その南がわが現在の近鉄生駒線で北側が現在の京阪交野線と言えるようです。このパンフレットの当時は交野線も信貴生駒電鉄でしたが、経営は京阪に全面的に委託され、実質京阪電車でした。

 さて、この道路の写真。磐船街道だと思うのですが、どこのあたりなのでしょうか?なんとなく磐船神社の手前(私市側)あたりかな?なんて第一印象では思いましたが、さて、どうなんでしょうね。
 戦前からこの道をバスが入っていたなんてなんだかわくわくします。つい最近、2002年2月までは奈良交通のバスが走っていました。東生駒から来ていたようです。植物園の手前にある月極駐車場が、奈良交通バスの転回場所になっていました。いつの間にかなくなってしまっていたんですね。

きさいちハイキングコース(8)/1976年の私市駅2010年05月14日 00時00分

 古いネガフィルムを整理していて、昔の私市駅が少しわかるものが出てきました。1976年3月のものです。


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 これがハイキング帰りの格好かなぁと思わせる服装ですが、以前のエントリで少し触れた、高校1年のクラスでハイキングに出かけた時のものです。右側の級友はブレザーにペーパーバッグという怪しからぬ出で立ちです。彼とは今でもちょくちょく会ったりするので、次回はこの写真を持っていって、恥ずかしいめに遭わせてやろうと思います。

 お馬鹿な話はさておき、この1976年3月当時、この写真では私市駅の駅舎が三角屋根だったのかどうか。ひさしを支える柱は瓦屋根の旧駅舎のものと同じなので、もしかしたらこの当時はまだ三角屋根ではなかったのかも知れません。


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 こちらはホーム側を写したものですが、手前の人物が真っ黒。完全に露出の失敗なんですが、それが奏功して後ろのプラットホームなどは細部が分かる程度に写っています。

 それにしても、もっと当時の様子がよくわかるものを撮っておけばよかったと思いますね。50歳を過ぎてやっとそのことがわかりました。これから先、いつまで生きられるかわかりませんが、これからはいろいろと写しておこうと思っています。


 こちらは同じ年の9月の私市駅です。この写真のファイル名をご覧になった方には1977年3月私市駅01.jpgと見えますが、これは記憶の間違いでつけたファイル名で、正しくは1976年9月です。
 古い京阪1300系電車です。当時でもすでに古い電車でしたが、いい佇まいですね。私は当時から好きでした。



 こちらは1976年の女子高校生です…と書くと怪しいブログになっちゃいますね。
 こちらも以前のエントリで写真を掲載した当時の彼女です。
 車内の様子はよくわかりませんが、窓の外の景色は今とさして変わらないように思えます。

 こちらはおまけ。同じ日の国鉄河内磐船駅です。どうやら当時、すでに複線化工事が始まっていたのか、この旧プラットホーム(現在の京橋方面行ホーム)は、すでに雑草に覆われています。こちらのホームを撮影できると言うことは、当時新しく出来ていた、現在の長尾方面行きホームがすでに使われていてたという事ですね。地下道ももう完成していたのでしょうか?



 それにしても、ホームの背景は田んぼばかりの、なんとも長閑な景色が広がっています。