きさいちハイキングコース(8)/1976年の私市駅 ― 2010年05月14日 00時00分
古いネガフィルムを整理していて、昔の私市駅が少しわかるものが出てきました。1976年3月のものです。

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これがハイキング帰りの格好かなぁと思わせる服装ですが、以前のエントリで少し触れた、高校1年のクラスでハイキングに出かけた時のものです。右側の級友はブレザーにペーパーバッグという怪しからぬ出で立ちです。彼とは今でもちょくちょく会ったりするので、次回はこの写真を持っていって、恥ずかしいめに遭わせてやろうと思います。
お馬鹿な話はさておき、この1976年3月当時、この写真では私市駅の駅舎が三角屋根だったのかどうか。ひさしを支える柱は瓦屋根の旧駅舎のものと同じなので、もしかしたらこの当時はまだ三角屋根ではなかったのかも知れません。

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こちらはホーム側を写したものですが、手前の人物が真っ黒。完全に露出の失敗なんですが、それが奏功して後ろのプラットホームなどは細部が分かる程度に写っています。
それにしても、もっと当時の様子がよくわかるものを撮っておけばよかったと思いますね。50歳を過ぎてやっとそのことがわかりました。これから先、いつまで生きられるかわかりませんが、これからはいろいろと写しておこうと思っています。

こちらは同じ年の9月の私市駅です。この写真のファイル名をご覧になった方には1977年3月私市駅01.jpgと見えますが、これは記憶の間違いでつけたファイル名で、正しくは1976年9月です。
古い京阪1300系電車です。当時でもすでに古い電車でしたが、いい佇まいですね。私は当時から好きでした。

こちらは1976年の女子高校生です…と書くと怪しいブログになっちゃいますね。
こちらも以前のエントリで写真を掲載した当時の彼女です。
車内の様子はよくわかりませんが、窓の外の景色は今とさして変わらないように思えます。
こちらはおまけ。同じ日の国鉄河内磐船駅です。どうやら当時、すでに複線化工事が始まっていたのか、この旧プラットホーム(現在の京橋方面行ホーム)は、すでに雑草に覆われています。こちらのホームを撮影できると言うことは、当時新しく出来ていた、現在の長尾方面行きホームがすでに使われていてたという事ですね。地下道ももう完成していたのでしょうか?

それにしても、ホームの背景は田んぼばかりの、なんとも長閑な景色が広がっています。

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これがハイキング帰りの格好かなぁと思わせる服装ですが、以前のエントリで少し触れた、高校1年のクラスでハイキングに出かけた時のものです。右側の級友はブレザーにペーパーバッグという怪しからぬ出で立ちです。彼とは今でもちょくちょく会ったりするので、次回はこの写真を持っていって、恥ずかしいめに遭わせてやろうと思います。
お馬鹿な話はさておき、この1976年3月当時、この写真では私市駅の駅舎が三角屋根だったのかどうか。ひさしを支える柱は瓦屋根の旧駅舎のものと同じなので、もしかしたらこの当時はまだ三角屋根ではなかったのかも知れません。

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こちらはホーム側を写したものですが、手前の人物が真っ黒。完全に露出の失敗なんですが、それが奏功して後ろのプラットホームなどは細部が分かる程度に写っています。
それにしても、もっと当時の様子がよくわかるものを撮っておけばよかったと思いますね。50歳を過ぎてやっとそのことがわかりました。これから先、いつまで生きられるかわかりませんが、これからはいろいろと写しておこうと思っています。

こちらは同じ年の9月の私市駅です。この写真のファイル名をご覧になった方には1977年3月私市駅01.jpgと見えますが、これは記憶の間違いでつけたファイル名で、正しくは1976年9月です。
古い京阪1300系電車です。当時でもすでに古い電車でしたが、いい佇まいですね。私は当時から好きでした。

こちらは1976年の女子高校生です…と書くと怪しいブログになっちゃいますね。
こちらも以前のエントリで写真を掲載した当時の彼女です。
車内の様子はよくわかりませんが、窓の外の景色は今とさして変わらないように思えます。
こちらはおまけ。同じ日の国鉄河内磐船駅です。どうやら当時、すでに複線化工事が始まっていたのか、この旧プラットホーム(現在の京橋方面行ホーム)は、すでに雑草に覆われています。こちらのホームを撮影できると言うことは、当時新しく出来ていた、現在の長尾方面行きホームがすでに使われていてたという事ですね。地下道ももう完成していたのでしょうか?

それにしても、ホームの背景は田んぼばかりの、なんとも長閑な景色が広がっています。
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