4月25日2010年04月25日 22時12分

 今日、4月25日はJR福知山線尼崎事故の日です。

 JR西日本の関係する重大事故はそのずっと前、1991年5月14日の信楽高原鐵道との正面衝突事故がありました。

 僕はちょうどその一週間前の同じ列車に乗っていました。実はもうディテールについては忘れてしまっていることが多いのですが。
 当時の同業者と一緒に信楽青年寮という知的障害者施設の作るすごい陶芸作品を見にゆこうと言うことで、二人連れ立って出かけたのでした。

 本当は臨時快速よりも早い草津線電車に乗って、貴生川から信楽高原鐵道のディーゼルに乗る予定でしたが、新快速が遅れたか何かで、草津駅ではもう草津線電車が出てしまい、仕方なくその後からやってきた臨時ディーゼル快速列車に乗ったのでした。
 ものすごい混雑でした。ほんとうにもうすし詰めで、貴生川からは柘植方面から来た乗客も乗り込んできて、もう暑くて気分が悪くなってきました。多くの乗客も混雑と暑さで苛立っていました。
 それで、二人して連結部に立っていたのですが、目の前にあった運転台の扉のノブを引っ張ってみると施錠されておらず開きました。
 気分も悪かったしこれは緊急避難だと運転台に乗り込み、窓を開けて風を入れ、付近の乗客と一緒にほっとしていました。冷房を入れないJRにも腹がたっていましたから、造反有理とばかりに。

 事故現場手前の信号場で止まったのも覚えています。というのは、信号場で行き違いをして走り出したときに、警笛のペダルを何気なく「鳴るかな?」と踏んでみたら鳴ったので、びっくりするわ恥ずかしいわで、小さくなっていたのを覚えているからです。

 これが、前のエントリでちょっと言ってました、JRの「個室」に入った話しです。

 一週間後に同じ列車が事故を起こしたので、それでこんな些細なことも、何度も思い出して覚えていたという訳です。あの時の混雑具合を思い出すと、その事故の凄惨な現場は想像出来ます。

 2005年4月25日の事故の時には、娘の友人も事故に巻き込まれ 九死に一生を得ています。ですからこの事故にも関心がありました。報道からJRってのは全く変わっていないのだなと信楽高原鐵道事故を思い出して考えていました。

 今日もJRに乗りました。実はあの尼崎の急カーブに近い曲率のカーブが片町線の住道-野崎間にあります。阪奈道路をアンダークロスするカーブです。ここで片町線は南から西へ方向を変えます。

 見にくいですが、重ね図を作ってみました。




 恥ずかしいことに、若い頃には事故や戦争で無くなった方の事を思うことなどありませんでした。自分には関係ないと。この年齢になってやっとそんな人達や残された人達の事を想像出来るようになってきました。遅きに失していますが、死ぬまで出来ないよりもましだったかとは思います。